長宗我部氏(ちょうそかべうじ)は、日本の土佐国の一族
長宗我部氏(ちょうそかべうじ)は、日本の土佐国の一族で、戦国時代に戦国大名となった一族である。「長曾我部」とも書き、「ちょうそかめ」と読む事もある。
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長宗我部氏の祖先については蘇我氏の子孫[1]、中国秦王朝の始皇帝の子孫と称する秦河勝の後裔など様々な説があるが、もとは土佐の在地豪族。長宗我部氏の初代とされる能俊が土佐に入った時期は諸説があり正確な所は不明であり、平安時代末期から鎌倉時代初期としかわからない。元は宗我部氏を自称したが、近隣にある香美郡にも同じく宗我部氏を名乗る一族があったため、長岡郡の一字をとって「長宗我部」とし、香美郡の宗我部氏は香宗我部を名乗るようにし、互いに両者を区別するようにしたと言われる。南北朝時代には、足利氏の一族で四国の守護職にあった細川家に属して南朝勢力と戦っていたが、戦国時代初頭の長宗我部兼序のとき、豪族の勢力争いで敗れて、一時は滅亡した。土佐中村に逃れた兼序の子の長宗我部国親は一条氏の支援を受けて長宗我部家を復興する。
そして国親の子の長宗我部元親の時代に、長宗我部家は最盛期を迎える。元親は土佐にあった本山氏や一条氏などを倒して1575年に土佐を統一する。さらに伊予国や阿波国、讃岐国にも積極的に進出し、河野氏や三好氏を駆逐していき、1584年、四国統一を果たした。
しかし翌年、羽柴秀吉の四国征伐のために長宗我部家は土佐一国を領する大名に没落する。これより以後、長宗我部家の衰退が始まる。1586年には戸次川の戦いで元親の嫡男で聡明で知られていた長宗我部信親が戦死。そのため、長宗我部氏の家督をめぐって争いが起こり、一族の吉良親実を殺す粛清を行なったうえで、四男の長宗我部盛親に家督を譲ると決定した。このとき、次男の香川親和は憤死し、三男の津野親忠は幽閉されている。
そして1600年、関ケ原の戦いで盛親が西軍に与したために戦後、所領を没収されて改易となる。1615年、盛親が大坂の陣で豊臣方に与すが、豊臣方が敗れたため盛親はもとより盛親の子らもすべて斬首され直系は絶えた。元親の弟の吉良親貞の子の吉良親実の子孫は肥後藩に仕え、同じく香宗我部親泰の子・貞親が堀田氏に仕えたとされるほか、傍系の一族は他家に仕えるか帰農して生き残り、明治にいたって長宗我部姓に復したものも多い。
また一説によると、元親が晩年伏見屋敷に暮らしているとき、一度だけ伽をさせられた婢女が子を孕み、生まれた子供がいたという。名を信九朗康豊といい、生母の実家で幼少期を百姓として過ごした後、滅亡した主家を再興すべく兄盛親が大坂城に入城したのに続き、大坂冬の陣、夏の陣と参陣した。大坂城落城後はつてを頼って駿河に落ち延び、その後しばらく経ってから酒井家に登用され、長宗我部家の血を続かせたと伝えている。
また由比正雪の片腕といわれた丸橋忠弥(長宗我部盛澄)は、長宗我部盛親の子孫と称していた。
^ 「そがべ」は「蘇我部」すなわち「蘇我氏の部曲(かきべ)」を指す姓である。
長宗我部氏歴代当主
長宗我部能俊
長宗我部俊宗
長宗我部忠俊
長宗我部重氏
長宗我部氏幸
長宗我部満幸
長宗我部兼光
長宗我部重俊
長宗我部重高
長宗我部重宗
長宗我部信能
長宗我部兼能
長宗我部兼綱
長宗我部能重
長宗我部文兼
長宗我部元門
長宗我部雄親
長宗我部兼序
長宗我部国親
吉良親貞
吉良親実
香宗我部親泰
長宗我部元親
長宗我部信親
香川親和
津野親忠
長宗我部盛親
長宗我部盛恒
長宗我部盛胤
長宗我部盛高
長宗我部盛信
長宗我部盛定
長宗我部盛澄
系図
┃
文兼
┏━━┫
雄親 元門
┃
兼序
┃
国親
┏━━━━━┳━━━━━╋━━━━┓
吉良親貞 香宗我部親泰 元親 島親益
┃ ┣━━┓ ┣━━━┳━━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓
親実 親氏 貞親 信親 香川親和 津野親忠 盛親 右近大夫 康豊
┣━━┳━━┳━━┳━━━┓
盛恒 盛高 盛信 盛定 盛澄(丸橋忠弥)
長宗我部氏家臣団
久武親直
谷忠澄
吉田孝頼
吉田重俊
吉田政重
久武親信
桑名吉成
佐竹親直
香川信景
浜田直乗
長宗我部 雄親(ちょうそかべ かつちか、??1478年(文明10年))は、長宗我部文兼の子。長宗我部元門の弟。
長宗我部氏の家督は父・文兼の後を兄の元門が継いでいたが、文兼と元門は次第に対立して不仲となり、文兼は元門を追放して家督に復帰した。その後を、雄親が継いだのである。雄親は家督争いで混乱した長宗我部氏の内部をまとめるため、寺社勢力との関係強化や弟を他家に養子として出すことでの家臣団強化を図った。1478年に死去し、後を子の長宗我部兼序が継いだ。法号は覚誉常通。
長宗我部 国親(ちょうそかべ くにちか)は、土佐の戦国大名。野の虎と評される。管領細川高国より偏諱を受ける。
生涯
永正元年(1504年)、長宗我部兼序の嫡男として生まれる。
永正5年(1508年)、父の兼序が、その横暴を怒った本山氏を中心とする豪族連合に岡豊城を攻められて自害すると、国親は一条房家に保護されて養育される(異説もある)。
永正15年(1518年)、房家の助力があったと言われているが、仇敵本山茂宗と和睦して嫡男本山茂辰と娘を婚姻させ、岡豊城に復帰して長宗我部氏を再興する。本山家の一門衆として重用された国親は忠臣として振舞いつつ、その裏で周辺豪族を調略し長宗我部氏の勢力拡大に励む。周辺豪族を攻めたり、息子を養子として送り込み乗っ取るなどして力を蓄えた国親は、権勢を誇った本山茂宗の死後、猛然と牙を剥いて本性を現し、本山氏の旧領を侵略しはじめる。戦いは一進一退ながらも、長宗我部家に次第に有利に運ぶ。
天文16年(1547年)、土佐一条氏の支城である大津城を攻める。弘治2年(1556年)には三男の親泰を香宗我部氏に養子として出し香宗我部親泰と名乗らせ、その家の乗っ取りに成功した。
また、土佐水軍を率いる池頼和に娘を嫁がせている。
永禄3年(1560年)、長浜合戦で宿敵・本山氏の支城である長浜城を攻め落とす。さらに勢いに乗って浦戸城も攻めた。この戦いでその惰弱さから姫若子と呼ばれていた嫡男長宗我部元親が見事な初陣を飾り安心したのか、病に臥せり急死した。享年57。
長宗我部家再興のために生き、臥薪嘗胆、策謀と戦いの人生だった。
政策
政略逞しく、元親以外の男子の多くを他家に養子に出し、家督を継がせるなど、安芸国の毛利元就と同様の他家乗っ取りを行っている。
国親は「一領具足」と呼ばれる在地の兵農兼業組織を活用し、後の長宗我部氏発展の基礎を作り出した名君である。
吉良 親貞(きら ちかさだ、天文10年(1541年) - 天正4年7月15日(1576年8月9日))は戦国時代の武将。長宗我部元親の弟。子に吉良親実。
長宗我部国親の次男に当たる。初陣は元親と同じく、長浜の戦いであり、その際出陣前に、国親は「親貞は豪気があり心配ないが、元親は心もとない」といっていた(宮地佐一郎著『長宗我部元親』より)ことから、初陣前の国親は、元親より親貞の方が信頼を置いていたことが分かる。1563年、兄の命で吉良氏を継ぎ、その後は一条氏討伐で多数の軍功を挙げ、元親に代わって総大将を務めることもあった。一条兼定の追放も、この親貞の尽力あってのことと言われている。
1575年、一条兼定が再起を図って土佐に攻め込んできたとき、一時、長宗我部氏は窮地に陥ったが、親貞が四万十川の戦いで一条軍を大いに破り、その窮地を救っている。しかし翌年、病を得て死去した。
親貞の死は長宗我部氏にとって大きな損失であり、もし、もう少し長生きしていれば、元親の四国平定は5年は早まったであろうと言われる。
吉良 親実(きら ちかざね、永禄6年(1563年) - 天正16年(1588年))は、安土桃山時代の土佐の戦国武将長宗我部元親の甥。
元親の弟・吉良親貞の子で、幼少の頃から智勇に優れていたために重用され、元親の娘を娶ることを許された。しかし、気性が激しいところが後に自身の破滅を招くことになる。
父の死後、その家督を相続する。そして一門衆として活躍するが、元親の側近・久武親直とは仲が悪く、いつも対立していた。1586年、元親の嫡男である長宗我部信親が戦死し、後継ぎ騒動が起こると、親実は長幼の序から元親の次男・香川親和を推し、四男である長宗我部盛親を推す久武親直と対立する。このとき、親実は生来の気性の激しさから、元親に対してたびたび諫言して、長幼の序を守って親和を跡継ぎとすることを進言したが、その諫言がかえって元親の逆鱗に触れることになり、1588年、親実は切腹を命じられてしまった。
親実の死後、その墓では怪異が絶えなかったと伝えられており、また現代においても交通事故が起こると「親実のたたり」と言われることがある。それゆえか、四国では有名な妖怪・怪異である「七人みさき」は親実とその主従の無念の死がモデルであるとも言われる。