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2008年12月 アーカイブ

2008年12月02日

シェリダン(Sheridan)

M551とはアメリカで開発されアメリカ陸軍で使用された水陸両用の空挺戦車である。愛称は、南北戦争時のフィリップ・シェリダン将軍にちなみシェリダン(Sheridan)であった。

シェリダンは、1950年代に使用されだしたM41軽戦車と空挺部隊用のM56スコーピオン空挺対戦車自走砲を統合し代替する装甲偵察空挺強襲車両の計画により開発が開始された。特にM56の防御力は、オープントップの自走砲ゆえ皆無に等しく、これを早期に交代させる必要があった。

そこでまとめられた新型空挺戦車の基本構想は、水陸両用で空中投下に耐え、更に既存の軽戦車を凌ぐ機動力と火力を持ち、車重は10 t 以内に収めるという厳しいものであった。また火力の強化に関しては、当時開発が進められていたM81 152mmガンランチャーの搭載が要求された。このM-81 152mmガンランチャーは通常弾の他にMGM-51 シレイラ対戦車ミサイルの発射が可能であった。

その他にも、シェリダンは空挺投下を可能とするため、アメリカ軍の戦闘車両としては初めてアルミ合金を車体、砲塔など全体に用いた。

シェリダンの試作車の開発は1960年からキャデラック社を主契約社として始まり、1962年に試作車が完成し各種試験を重ねた後、1965年にM551として正式採用された。

1966年から生産が開始され、1970年までに1,662両のシェリダンが生産された。 派生型としてはレーザ測遠機を搭載したM551A1がある。

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2008年12月09日

走行装置:戦車は無限軌道

走行装置:戦車は無限軌道(履帯、商標名でキャタピラ)で走行する。起動輪と誘導輪があるのは共通だが、転輪には様々な形が存在する。普通は一列に並べてあるが、かつてのドイツ重戦車の場合、転輪が千鳥型に二重になっていたり、三重に並べたり、荷重を分散するようにしていた。ただし保守が困難な上、手間の割に効果的とは言えなかったため第二次世界大戦後は、そのような形式は採用されていない。転輪には騒音と振動を軽減する目的で周辺にゴム製のソリッドタイヤを装着するが、ゴム資源が不足していた第二次世界大戦中のドイツ・ソ連では、転輪内部や車軸にゴムを内蔵したり、やむを得ず全くゴムを用いない鋼製転輪を使用する場合もあった(イスラエルの戦車は砂漠でゴムタイヤの破損が激しい為に一部に完全鋼製転輪を使用している)。
主砲:1970年代末以降の主力戦車では120mmクラスの滑腔砲が採用されることが多い。加えて射撃統制に環境センサーとコンピュータの組み合わせを用いることで、あらゆる条件下での精密射撃を可能にしている。射撃時の反動を抑えると共に、砲身後退量を抑えて砲塔を小さく済ませるため、油圧により反動を吸収する駐退器が備えられている。以前は砲口にマズルブレーキを装備した物が多かったが、APFSDS弾の装弾筒が引っかかるため最近の車輌では見られない。先端近くに砲身の歪みをレーザー計測する反射体が取り付けられているものが多い。また中東・アフリカなどの高温地域で運用される車輌には、主砲身に熱による歪みを防ぐサーマル・ジャケット(遮熱カバー)の装着が見られる。
サスペンション:初めて実戦投入されたMk.I戦車にはサスペンションは存在しなかったが、その後におけるサスペンション形式はさまざまで、スプリングの種類も、リーフスプリング、コイルスプリング、渦巻きスプリング、クリスティー式(コイルスプリングと大型転輪の組み合わせ)、横置きトーションバー、縦置きトーションバーなどがある。現用戦車では主に横置きトーションバーが採用されている。スウェーデンのStrv.103は前後左右の油圧を変える事で車体の角度を変えられる油気圧(ハイドロニューマチック)式サスペンションを史上初めて実用装備した。陸上自衛隊の74式戦車も同様の油気圧式サスペンションを採用しているが、この機能は地形を利用した待ち伏せ砲撃に有利であり、専守防衛を旨とする両国の防衛策に適していたと言える。また、90式戦車や韓国のK1は横置きトーションバー式と油気圧式を混合装備している。いくらエンジン出力の大きな車両でも、サスペンションの性能が悪ければ車体や乗員の負担が大きくなり十分な機動性は発揮できず、逆にエンジンが非力であっても、サスペンションの改良により機動性を向上させる事が可能である。

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2008年12月14日

第一次信長包囲網

永禄12年(1569年)、信長は足利義昭の将軍権力を制限するため、「殿中御掟」9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。しかし、これによって義昭と信長の対立は決定的なものになっていくことになる。

元亀元年(1570年)4月、信長は度重なる上洛命令を無視する越前の朝倉義景を討伐するため、浅井との盟約を反故にし、盟友の徳川家康軍とともに越前へ進軍を開始する。織田・徳川連合軍は朝倉方の諸城を次々と攻略していくが、金ヶ崎へ進軍したところで北近江の盟友であった浅井長政に背後を突かれるかたちとなった。突然の窮地に追い込まれた信長であったが、殿(しんがり)を務めた池田勝正・明智光秀・木下(藤吉郎改め)秀吉・徳川家康らの働き(金ヶ崎の退き口)もあり、なんとか京に逃れた。信長が京に帰還したとき、従う者はわずか10名ほどであったといわれている。

これを機に、将軍・足利義昭と信長の対立は先鋭化した。義昭は打倒信長に向けて御内書を諸国に発し、朝倉義景、浅井長政、武田信玄、毛利輝元、三好三人衆、さらに比叡山延暦寺・石山本願寺などの寺社勢力に呼びかけて「信長包囲網」を結成した。

対して信長は浅井長政を討つべく、元亀元年(1570年)6月、近江国姉川河原で徳川家康軍とともに浅井・朝倉連合軍と合戦する(姉川の戦い)。浅井方の先鋒・磯野員昌に15段の備えのうち13段まで破られるなど苦戦しつつも、織田・徳川方はこの一戦に勝利した。

元亀元年(1570年)8月、信長は摂津で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣する(野田城・福島城の戦い)が、石山本願寺の援軍などもあって苦戦する。しかも、信長本隊が摂津に対陣している間に軍勢を立て直した浅井長政・朝倉義景・延暦寺などの連合軍3万が近江坂本に侵攻する。織田軍は劣勢のなか持ちこたえようとするが、重臣・森可成と信長実弟の織田信治をこのとき喪った。対して信長は、9月23日未明に急ぎ本隊を率いて摂津から近江へと帰還。慌てた浅井長政・朝倉義景らは比叡山に立て籠もって抵抗した。信長はこれを受け、近江国志賀において浅井・朝倉連合軍と対峙する(志賀の陣)。しかし、その間に本願寺の法主・顕如の命を受けた伊勢長島一向一揆衆が叛旗を翻し、信長実弟の織田信興や重臣・坂井政尚らを戦死に追い込んだ。いよいよ進退に窮した信長は正親町天皇に奏聞して勅命を仰ぎ、12月13日、帝の命をもって浅井・朝倉軍との和睦に成功した。大久保忠教の記した『三河物語』によれば、このとき信長は義景に対して「天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望み無し」とまで言ったという。

元亀2年(1571年)9月、信長は何度か退避・中立勧告を出した後、なおも抵抗し続けた延暦寺を比叡山焼き討ちにした。これは、浅井・朝倉連合軍に協力したことに対する報復であったとされている。

スキミン ソーター ブロッキ レニア ツーリング ナスカ イジェクト ビッグ カット 管弦楽団 ユース イブ日本 バンコ ゾーニング フルスピ モンテ サクラ キット モメンタム スラング 波間 ヒロポン ハシソウ プレース ジャル めんだ トラベラ パロディ タイプ オーバー ウィグ パキラ そらち ダラー シロッコ バーベナ ダーク フリー スーツ マウス ネクタ ネチズ ヨット バリ デリン ブルーデー フェルト イーブン ブライ にしままい


2008年12月28日

北緯38度線以北では関東軍

北緯38度線以北では関東軍の壊走によってソ連の進駐が予定よりも早く進んだ。各地で自発的に生まれたと言われている人民委員会は早々にソ連軍によって接収された。ソ連の進駐が速過ぎたせいで、38度線は降伏受諾線ではなく分割占領線となった。北部でも、朝鮮人運動には様々な潮流があったと言われているが詳しいことは分っていない。

このようにして朝鮮国内の足並みが揃いきっていない中に、アメリカに亡命していた李承晩や、重慶に亡命していた金日成をはじめとする満州抗日パルチザン出身の者たちなど、様々な亡命者が帰国してきた。これが決め手となって占領軍政下・南北朝鮮の政治情勢は大混乱に陥った。左右対立の激化は南北の分断の一因にもなり、特にソウルで朝鮮人の意思を糾合することをますます難しくした。

その後、信託統治案を巡る左右対立に、米ソの対立も反映され、結果的には、アメリカ軍占領地域ではアメリカが推す李承晩を中心とした政権と李承晩の権力基盤が作られ、その他の潮流は排除された。ソ連軍政下でもソ連が推す金日成がトップにすえられ、多数を占める国内にいた共産主義者たちは時間をかけて排除されていった。このようにして、両大国の占領軍によって「建国」は主導されていった。

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